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予科練と雄翔園・雄翔館について

阿見観光ガイドの筧田 聡(かけひだ さとし)です。

ページの最初に、予科練平和記念館の設立から携わっている解説員の話をお伝えします。

「『戦争を忘れない』は知っているからできることです。知らなければ忘れることもできません」

予科練と雄翔館の違い

予科練は、予科練生の日常である訓練や生活の様子を展示している施設です。

雄翔館は、神風特別攻撃隊によって散っていった英霊の想いに触れる施設で、遺書や遺物が展示されております。

予科練とは

阿見町には予科練平和記念館と雄翔館という、予科練にちなむ記念館が2つあります。「予科練」とは海軍飛行予科練習生、その制度及び略称を指す言葉です。1930年(昭和5年)に横須賀の追浜に設置されて、終戦まで存在した海軍航空兵の養成所です。予科練の制度は我が国海軍が第一次世界大戦以降、航空戦力重要性の認識の下、若き熟練搭乗員養成を目的に、若年から基礎訓練を行いました。

第一期予科練習生は、全国の小学校高等科卒業程度の14歳半〜17歳の少年5,807名の応募があり、79名が選抜。横須賀海軍飛行予科練習部で、教育が始められました。

1939年(昭和14年)、戦況の悪化に伴い早期の搭乗員育成が求められ、飛行予科練習部が阿見町へ移転し、土浦海軍航空隊として予科練教育の中心となりました。

予科練出身者は真珠湾攻撃、ミッドウエー海戦、中国大陸等で空軍力の中心として戦い、戦局が悪化してからは特別攻撃隊の隊員へと編成されました。

当初、予科練生は2年半の基礎教育を受けたあと、練習機(通称「赤とんぼ」)による1年以内の飛行訓練を受けました。その後、配属先の部隊で実用機に乗り、熟練操縦員へと成長していきました。(終戦直前には教育期間は短縮され、最短甲飛6ヶ月、乙飛20ヶ月に → 例:1937年に日中全面戦争が始まり、1年半に短縮)

最後の頃には、予科練への志願は半強制的とされている → 配属将校が来て名簿で次男三男を一人ひとり呼び出し「お前志願しろ」と発言し、志願を断ると特高の監視対象となる(参考:YouTube|知らないセカイ「【衝撃】全ての日本人が知るべき〝愛国心〟の正体。次世代へ繋ぐ『バトン』を受け取りました。」

飛行予科練習生制度が始まってから終戦までの15年間、全国19ヶ所の基地への入隊者は24万人。その中で卒業者は約24,000人、戦死者は8割にあたる18,564名にのぼりました。※ 終戦間際に大量入隊したが(させたが)乗る飛行機がなく、予科練課程を卒業できる人は少なかった。

⚠ 1939年の日本の状況

1939年夏は日照りと労働力不足とで電力不足,石炭不足に見舞われ産業活動は低下した。凶作が引き金で米不足が起こり,生活必需品の不足が広がった。これに第2次大戦による輸入困難も加わってインフレは増進した。社会不安は激化し,40年1月には阿部内閣は退陣に追い込まれた(引用:日中戦争|世界大百科事典

新語・流行語:「産めよ殖せよ国のため」「日の丸弁当」
(参考:自分史製作所|【1939年】自分史と関連付けて書きたい1939年の出来事

雄翔館

予科練出身戦没者の慰霊・顕彰を目的に組織された海原会が、1968 年(昭和43年)に予科練出身者の慰霊と真の平和を願い建設しました。予科練の歴史を後世に正しく伝えるため、その象徴の地である土浦海軍航空隊の跡地に作られました。この施設は予科練出身戦没者たちが出撃前に決意を書いた遺書や家族への手紙、遺品等1700点を収蔵・展示し、少年たちの戦いを現代に伝えています。なお、館内は撮影禁止となっています。

山本五十六

1884年(明治17年)
 旧長岡藩士高野定吉の六男として現長岡市で生まれる
 父56歳の時の子のため五十六と命名

1916年(大正5年)
 長岡藩家老 山本家の養子となり山本家を再興、以後山本姓を名乗る
 ※ 山本家は明治維新時に新政府軍と旧幕軍の戦いの責任を取らされお家断絶となっていた)

1918年(大正7年)
 旧会津藩士三橋康守の三女禮子と結婚
 長岡と会津は共に旧上杉藩領の時代あり(上杉鷹山(米沢藩9代藩主)の信奉者)

1924年(大正13年)9月~1925年(大正14年)12月迄
 霞空副長兼教頭として勤務、霞ヶ浦神社建立に尽力
 40歳であった(『続・阿見と予科練』p6)

1925年(大正14年)12月
 米国日本大使館付駐在武官として転出
 ※ 正式呼称は「米国在勤帝国大使館附海軍武官」

1943年(昭和18年)4月18日
 パプアニューギニアのブーゲンビル島上空で戦死。享年59歳。
 一式陸攻2機と零戦6機(旧型)の護衛で前線視察の途中
 P38ライトニング16機(新型)の待伏せ攻撃で撃墜され戦死
 米軍は2週間前に更新された暗号を解読していた
 山本はまだ日本に制空権が有り油断(本来護衛機50機程度必要)
 最終階級は元帥海軍大将
 山本の死は1か月以上秘匿され、5月21日の大本営発表ならびに内閣告示で公となった
 (副司令も知らなかった)

ちなみに山本は海軍の「大艦巨砲主義」に対し、航空機が担う役割の重要性を訴えていた。

参考:山本五十六 – Wikipedia

常在戦場

 山本五十六の出身地・越後長岡藩(藩主牧野氏)は、元々東三河から来ており、戦国時代に牧野は東三河に牛久保城を建てた時、家訓として十八条の『心得の条』を定めた。「常在戦場」はその第一番目の家訓である。

名言

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。

雄翔園

 雄翔園は、若鷲として祖国防衛に数多くの予科練生が全国からこの地に集い、日夜勉学に励み、心身を鍛えた場所に、その功績と英霊を永く顕彰するため、1966年(昭和41年)に予科練関係者によって造られました。戦没者慰霊碑と共に5月27日(海軍記念日)に高松宮両陛下をお迎えして除幕式が行われました。

 園内の庭は、予科練生達が故郷を偲び、両親・兄弟姉妹の事を思う尊い気持ちから日本列島を形取り、日本全国各地の石を集めて作られています。(次項に写真あり)

 先輩と後輩が肩を組んで日本の平和と繁栄を見守っている姿の像手前の敷石は出撃前の水盃を表しています。

高松宮妃殿下御歌歌碑

海はらに  はたおほそらに  散華せし
きみら声なく  いく春やへし

喜久子(高松宮妃殿下)

歌碑建立3ヶ月前に霞ヶ浦湖畔に立って予科練習生を偲んで詠んだ御歌

中庭の芝は桜の花びらを形取ったもので、そこに海軍制服の象徴である七つボタンを表す石が7つ配置されています。また芝生廻りの敷石は錨を表し、外回りには日本列島に見立てた池が作られています。

零式艦上戦闘機

予科練平和記念館の実物大模型

開館5周年を記念し実物大で製作 → 手掛けたのは「広洋社」(水戸市)

モデルは戦争初期に投入された21型 → 「明灰白色」塗装

本物の零戦の話

当時の日本の軍用機の名称には採用年次の「皇紀(神武天皇即位紀元)」の下2桁を冠する規定 → 零戦が制式採用された1940年(昭和15年7月)は2600年にあたるため、下2桁の「00」から「零式」とされた

21型は零戦の中で一番美しいとされる機体

52型は深緑色

生産数1万430機(日本の軍用機で最も多い)

開発は三菱重工業、中島飛行機でもライセンス生産が行われ、総生産数の6割以上は中島製

航続距離 3,000 km(長大)
対爆撃機用の20mm機銃2門を装備(重武装)

格闘戦を重視した優れた運動性能

空力的洗練と軽量化を徹底追求した設計 → 1000馬力級の栄エンジンの性能を極限まで引き出し、世界の戦闘機の頂点に(栄エンジン:中島飛行機が開発・製造した航空機用空冷星型エンジン)

設計当時の栄エンジンを搭載して飛行可能な零戦は、米ロサンゼルスのプレーンズオブフェイム航空博物館 [Planes of Fame Air Museum] が所有する零戦52型1機のみ

主翼主桁には住金の新合金「超々ジュラルミン」を使用

特別攻撃隊

・特攻隊員の戦死者:海軍4,146人、陸軍が2,225人、計6,371人
・愛国心とは死ぬこと
 死ぬのは怖いというよりしょうがないこと&名誉、「君に忠 親に孝」
 ※ 日中戦争時代から戦死は名誉とされる風潮
・実際に特攻を命じられたときは命令命令で死や生を考えている間はなかったと証言する方も
・終戦直前の特攻志願例:分隊長室へ呼び出され、「今から特別休暇2泊3日やる、わかってるな」と言われる

神風特別攻撃隊

大西瀧治郎の命令で1944年10月20日に編成

大西瀧治郎

・大西瀧治郎予科練生に言っていた話(口伝)
 若い人が命をかけて守ったと聞けば陛下は戦争をやめる
「若い人が命をかけて守った&それを聞いて陛下が戦争をやめた」事実 → 日本民族は再興できる
・大西瀧治郎は終戦翌日 8月16日に割腹自殺 → 介錯を行わず10時間苦しんだ後に死亡

回天

・鉄の棺桶と呼ばれた特攻兵器
・人間魚雷回天発案者「黒木博司大尉」
・海軍特攻部長「大森仙太郎中将」が幕末の軍艦回天丸から「回天」と命名
 天を回(めぐ)らし、戦局を挽回するという願いが込められた
・1.5トンの爆薬を積む(九三式魚雷の3倍)
・潜航中は前が見えない
 潜望鏡を使い、海上で一旦敵艦の位置を確認後、推測で潜航し、敵艦に体当たりを仕掛ける
・志願状況例:甲種飛行予科練習生13期生2,000名の卒業生の内熱望94%、望5%、保留1%で熱望・望約1,900名以上の中から100名が選抜された
・屋外展示の回天(実物大模型):2005年(平成17年)にTBS系列の2時間番組として放映された「僕たちの戦争」の撮影に使用された実物大の回天模型が阿見町に寄贈引用:受け継ぐ思い | 予科練平和記念館ブログ

その他

日中戦争〜大東亜戦争

1931年 満州事変

・満州を占領し満州国建国 → 石炭調達

1937年〜1945年 日中全面戦争

・北京郊外の武力衝突をきっかけに、華北から華中へと戦争拡大、首都南京を占領し更に華南へ
・通常、日中戦争の期間は、1931年〜1945年(終戦)まで

1941年 大東亜戦争(太平洋戦争)

・日中戦争の流れでベトナムまで進出し、大東亜戦争に発展
・タイ、シンガポールに侵攻しかかったとき、ハワイマレー沖海戦が起こる
・ミッドウェー海戦の大敗(日本海軍の半滅) → 戦後まで発表されず

特別高等警察の対象 → 一般人
憲兵の対象 → 陸軍
巡邏の対象 → 海軍

最後に…… 私たちガイドもまだまだ学び成長しながら情報発信を行っております。もしお気づきの点や質問事項がございましたら、お手数をおかけしますがご連絡いただければ幸いです。これからもどうぞよろしくお願いいたします!

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ABOUT US
筧田 さとし
1989年 茨城県 阿見町 出身在住。阿見観光ガイド 幹事, 茨城県 「観光マイスターS級」 「地酒ソムリエ」 認定, 弓道弐段, びあけん2級。 ㈱Key-Performance 代表取締役, 起業茶屋® 主催, サザン好き。