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’24 5/21 茨大周辺戦跡ツアーガイド 補助資料

おはようございます! 阿見観光ガイドの 筧田 聡 かけひだ さとしです。本日は茨城大学阿見キャンパス周辺の戦跡を120分のコースでご案内します。よろしくお願いいたします!

茨大周辺戦跡ツアー

霞ヶ浦海軍航空隊

第一次世界大戦を機に欧米諸国は軍事目的の航空機の有用性を改めて認識し、航空機の開発を本格的に始めました。欧米より10年遅れていると言われた日本は、それに追い付こうと欧米から航空機を購入し、搭乗員養成を目的に海軍士官を欧米に派遣しました。この阿見原に水上機だけではなく陸上機も離着陸できる飛行場の建設を海軍に進言したのは、金子養三中佐(1882-1941)です。(『海軍航空回想録』(航空新聞社,1964,桑原虎雄著)p150〜151
(予科練平和記念館蔵資料No.1220-11))

当時阿見原と呼ばれたこの地域には、稲敷台地と呼ばれた平坦な野原があったこと、霞ケ浦の湖岸にあること、また交通の便(常磐線)も良い、という好条件がそろっていました。1920年(大正9年)には計85万坪(280ha)の整地・湖岸の埋め立てが始まり、翌1921年(大正10年)7月には東洋一大きな「霞ヶ浦飛行場」が完成しました。

霞ヶ浦海軍航空隊の開隊(1922年11月1日)までは「霞ヶ浦臨時海軍航空術講習部」と呼ばれておりました。

1922年(大正11年)9月から翌年10月まで、日英同盟のよしみもあり英国からセンピル大佐を団長とするセンピル教育団30名(含軍医1名)を招聘し、海軍士官、準士官、下士官に航空機の操縦、整備、射撃、爆撃、写真、落下傘降下など多方面に渡る教育が行われ、日本海軍航空隊の航空技術は大きく前進しました。1929年(昭和4年)8月19日には、ドイツから世界一周中のツェッペリン伯号が来隊、停泊中の4日間で40万人の見物客が押し寄せました。(『阿見と予科練』 p32)また1931年(昭和6年)8月には米国からリンドバーグ夫妻が来隊しました。

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ツェッペリン伯号来日, 1929年(昭和4年)8月19日, 引用:予科練平和記念館所蔵『霞空十年史』

1939年(昭和14年)には、横須賀から「予科練」(海軍航空飛行予科練習生)が移転。霞ヶ浦海軍航空隊の水上班跡に、「土浦海軍航空隊」として開隊します。

その後霞ヶ浦海軍航空隊は、日本海軍搭乗員養成の重要な役割を24年に渡って果たしました。(1917年(大正6年)には搭乗員の公募が開始され、下士官5名が採用された。更に海軍はより多くの搭乗員育成が急務となり、1930年(昭和5年)には少年飛行兵制度、いわゆる「海軍飛行予科練習生」(予科練)の制度を採用。その後も数的な不足が予想され、1934年(昭和9年)には一般の大学、高等専門学校卒業者を対象とする航空予備学生制度が設けられました。(奥宮正武著『海軍航空隊全史(下)』P231))戦後、霞ケ浦海軍航空隊本部跡は幾つかの変遷があった後、茨城大学農学部・東京医大茨城医療センターへと変遷し現在に至っています。

また飛行場跡は民間等に払い下げされ、住宅地、工場、学校(県立医療大学、阿見中学校)等 が建てられました。(霞ケ浦海軍航空隊から分離独立した土浦海軍航空隊跡地の一部は霞ケ浦高校、土浦三高へ変遷した。)“以前そこが飛行場だった”ということを知らない人が増えています。

中央格納庫|井関農機㈱

中央格納庫は霞ケ浦海軍航空隊飛行場の中央に位置し、現在は井関農機茨城センターがある所です。中央格納庫は、飛行場が開設された数年後の1923年(大正12年)半ば頃と思われる。

六棟の飛行機格納庫(鉄骨赤煉瓦造り平屋建)が計画的に配置され、中央の第六飛行機格納庫は飛行機の修理が可能な工場となっていました。(戦後第五飛行機格納庫は焼失し現存するのは5棟)

格納庫両サイドには、戦闘指揮所が2か所現存しています。当時は地上から管制する高度な技術もなく、誘導員が手旗信号で離着陸の指示を行っていました。

旧格納庫は現在井関農機㈱のトラクター修理工場となり、一体化された工場として運用されています。工場内部には基本的に入れませんが、会社の了解を得れば巨大なトラクター等を見ることが出来ます。建物は一体化されましたが、ほぼ当時のまま使用しており外観も当時の面影を偲ばせています。

茨城県園芸試験場|茨城県立医療大学 運動場

1962年、茨城県園芸試験場が開場します。

参考:農業いばらきのあゆみ

誘導路(地元通称「滑走路」)

1944~1945年(昭和19~20年)の終戦まで、阿見町の中島飛行機㈱でゼロ戦を製造(組立)していました。(零戦52型と推定) 工場があった場所は中央8丁目のフタムラ化学㈱茨城工場が在る所です。

1944年(昭和19年)になると米軍による中島飛行機㈱(現スバル)太田・小泉両製作所への空爆が懸念されました。(1945年(昭和20年)2月、両工場壊滅的被害)

海軍は戦闘機の生産を増強するため、当時第一海軍航空廠(現陸上自衛隊関東補給センター)の格納庫として使用していた第一軍需工廠での代替え生産を決定。霞ケ浦飛行場に隣接する軍需工廠内で、零戦の製造(組立)を開始しました。

中島飛行機(株)小泉製作所等から部品を調達し、荒川沖駅から伸びていた海軍専用貨物線を利用して工場に運び入れ、製造しました。完成した零戦は誘導路(通称:滑走路) を通って霞ケ浦飛行場まで運び、全国各地の航空隊へ納入されました。

※ 誘導路の一部は道路として現存(ヤックスドラック ⇔ フタムラ化学)


出典:『阿見と予科練』P239


海軍専用貨物線(引用:『海軍航空隊ものがたり』(2014) P163)

有蓋掩体壕(阿見町指定文化財)|私有地内


出典:『阿見と予科練』, P303.

有蓋掩体壕は、1943年(昭和18年)末 ~ 1945年(昭和20年)初頭にかけて、霞ヶ浦海軍航空隊が米軍機の空襲より飛行機を守るために造られたものです。

屋根のない土塁だけを盛り上げて造ったコの字形の「無蓋掩体壕」(約80基)と、蒲鉾型で屋根のある鉄筋コンクリート製「有蓋掩体壕」(21基)がありました。町内に現存するのは無蓋掩体壕が2基、有蓋掩体壕は1基です。戦後の鉄不足の影響で殆どの掩体壕が取り壊されてしまいました。

格納時には、機体を後部から壕の中に引き入れました。雨水排水のため、壕の基礎部分は少し傾斜しています。開口部は約14m、前面幅が約22m、奥行き11m、高さ約5mです。これは零式艦上戦闘機 (全幅12m, 全長9m, 全高約3.5m) が丁度、入る大きさです。

阿見字阿見原にある有蓋掩体壕の1基は、当時の戦争の歴史を知るうえで貴重な戦争遺跡として、2010年(平成22年)「阿見町指定文化財」に指定されました。

戦後、海軍から払下げとなり、居宅になっていたために幸運にも現存されています。他の壕は鉄不足の影響で鉄筋取りにあい、壊されてしまいました。

終戦後、山田盛英さん(現当主山田敏子氏の義父)が台湾から引き揚げ入植し、スイカや落花生の栽培を手掛けられました。そして一家は、戦後暫く掩体壕を住まいとして利用。住宅新築後も「離れ」や倉庫として活用。1998年(平成10年)に91歳で亡くなられた義父の盛英さんは「掩体壕は山田家の歴史、壊さないで残してほしい。」と掩体壕の保存を望んでいました。

阿見町に唯一現存する有蓋掩体壕は、戦中・戦後の環境の厳しさが如術に分かる遺産として、後世に伝え、残していかねばならないものではないでしょうか。

海軍道路|茨大通り

霞ヶ浦航空隊の水上班から航空隊本部まで通じる幅8間の道路 (通称「海軍道路」) があり、茨城県内で最初の舗装道路でした。

昭和天皇は、1942年 (昭和17年) までに計4回、霞ヶ浦海軍航空隊への行幸のため通られ、また秩父宮、高松宮、その他多数の皇族が通られました。道路脇には桜が10m間隔で植わっておりました。

戦前の陸海軍の都市には、必ず軍用地や街並みに桜が植樹されていました。阿見町にも海軍道路に桜並木(1928年 (昭和3年) 11月10日 昭和天皇即位の礼記念/10m間隔)があり、桜と海軍には深い繋がりがありました。(⚠現存する桜は坂の途中に3本のみ)

海軍道路沿いに海軍用地標柱が2箇所あり、当時の面影が見受けられます。標柱の下部は舗装されていて読むことは困難です。

道路の両側には桜の木が100本程度植えられており、春になると桜の花で空一面覆いつくされ、町一番の桜の名所であり上品なたたずまいの場所です。

町の大イベントである「まい・あみ・まつり」が、1990年(平成2年)~2002年(平成14年)までこの道路で実施されておりました。現在は交通状況を考慮し県立医療大学・さわやかセンターの周辺で行われています。

霞ヶ浦海軍航空隊本部|茨城大学 阿見キャンパス(農学部)

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霞ヶ浦海軍航空隊本部入口(引用:書籍『阿見と予科練』P19)

霞ケ浦海軍航空隊は、航空機の操縦・整備・航空戦術等の教育を主な任務としていました。操縦教育では、練習機(通称:赤とんぼ, 九三式中間練習機)による操縦訓練教育が行われました。
(前席:練習生、後席:教官)

方位盤(阿見町指定文化財)

この方位盤は、円盤の縁を360°に刻み著名な町や地点が記されています。これによって操縦学生たちは、自分の位置・方位・風向き等を常に把握し操縦の際に参考としていました。

海軍機は通常海上飛行となる為、搭乗機の位置を常時把握する事は必須でした。そして空中衝突等の事故防止を図る為、方位・方角の等の確認は厳しく指導されました。しかし一説では、こちらの方位盤は練習生が出身地の方向・方角を確認して、故郷を偲ぶ場所であったとも言われています。

* 形状:台座部 正8角形(1辺90cm)/ 円部直径2m

霞ヶ浦神社(土台のみ)

大正14年10月、霞ヶ浦海軍航空隊で山本五十六が建設委員長になり、飛行機事故による殉職者の英霊を祀る神社の建立計画が出されました。

1926年 (大正15年) 2月1日、 大日本帝国海軍の発展の礎となられた航空隊殉職者の英霊を祀るため、 航空隊本部北側樹林辺りに建立。当時600坪の敷地に神殿、 鳥居、 社名碑、 山本五十六の歌碑が整然と配置されていました。

建設前の航空隊には山本五十六が副長 (海軍大佐) として、 1924年 (大正13年) 9月〜1925年(大正14年)12月まで 1年3ヶ月間 勤務しました。当時、 訓練中の飛行機事故が頻発。 高価な飛行機が損傷し、 航空隊員だけでなく民間人も巻き添えになっていたことから、 山本は霞ケ浦神社の建設委員長として建立を推進しました。

全国の海軍航空隊関係者60有余の英霊が祀られました。神殿は伊勢神宮と同じ「古式神明造」で神社の建立資金は全国の海軍関係者の浄財でまかなわれ、敷地整備、基礎工事、参道整備は霞ヶ浦海軍航空隊員の奉仕で行われました。

以後、春と秋に祭礼が行われてきましたが、終戦時進駐軍 (GHQ) から廃棄の指令で、 止む無く社殿は撤去されました。現在、社殿は中郷の阿彌神社の境内に移設されましたが、老朽が甚だしい状況になっています。

* 神社の社殿は伊勢神宮と同じ建築様式の古式神明造(拝殿は造営されなかった)
* 全国の海軍で昭和20年の終戦までに祀られた海軍航空殉職者の英霊は5573柱

終戦後、進駐軍の指令により霞ヶ浦神社は撤去となり、阿見町の格段の配慮により中郷の阿彌神社に移設されました。

地下防空壕跡


※東日本大震災後、2013年頃の写真

地下防空壕跡は茨城大学農学部職員駐車場の脇、小高い場所。
入口は上部に2箇所、 横に1箇所。 コンクリート製でアーチ型、土で覆われています。終戦後は子供の遊び場となっていましたが、 侵食が激しく危険なことから入口が塞がれ、内部は泥が溜まっている状況です。(外観を見るだけの案内となります。

第一士官宿舎|現存なし

1929年(昭和4年)11月19日に茨城県下で行われた陸軍大演習の際に、昭和天皇のとなった建物。当時阿見村の村長湯原一を始め、 村民・職員・児童生徒等が第一士官宿舎前で提灯行列して陛下をお迎えした。

* 鉄骨レンガ造2階建、金森式鉄筋煉瓦 / 耐震構造
* 金森式鉄筋煉瓦とは

河川技術者で内務官僚の金森が技術考案した煉瓦の施工方法のこと。
金森は他にも、戸田漕艇場(ボートコース)・八郎潟干拓・仙塩総合開発計画等を提案した。

第一士官宿舎階段親柱(阿見町指定文化財)|霞光荘

茨城大学農学部「霞光荘」に、 当時第一士官宿舎の正面階段に使用されていた親柱 (1対) が移設保存されている(寸法:高さ1.13m、 18cm角)。西洋風の彫刻が施され、 気品溢れる柱である。また別の1対は、近くの東側の倉庫内に保管されている。

この親柱は、霞ヶ浦海軍航空隊第一士官宿舎正面玄関の2階に通じる階段に設置された4本の内の2本です。柱頭には西洋風の彫刻が施され、気品溢れるものがあります。昭和4年11月19日、この宿舎は昭和天皇行幸に合わせて建築され、行在所になりました。陛下は茨城県下で行われた陸軍大演習の際、水戸の行在所(旧茨城県庁)から列車で土浦に到着されました。建物は2階建の鉄骨造りで鉄筋を組み込んだレンガを用い、内外装は漆喰仕上げでした。

各階の廊下はコンクリート仕上げ、各室の床は板敷で部屋数は1階は41、2階は53ありました。戦後この宿舎は茨城大学に引き継がれ、教場等に使用されましたが、1994年(平成6年)から翌年にかけて解体されました。

軍艦旗掲揚塔(阿見町指定文化財)

掲揚塔は1922年(大正11年)11月航空隊の開隊から終戦まで使用され、当時の航空隊本部庁舎正面に位置していました。(霞ヶ浦海軍航空隊本部庁舎:1994年 (平成6) 解体、 現茨大農学部職員用北駐車場)

毎日、 朝8時「課業初め」と夕方5時「課業終了」のラッパの合図で、軍艦旗を昇降させていました。その間、隊員は旗に向かって敬礼し、旗が見えない場所においても旗の方向に体を向けて、直立不動(気をつけ)の姿勢を取っていました。

軍旗は国家の象徴として深く敬い慎むものであると、陸軍・海軍ともに厳しく指導されていました。また皇族来訪時には、皇族旗が掲揚されました。

* 基部・支持金具残っているがポールは撤去
* 構造:鉄筋コンクリート造 寸法:全高1.77m、全幅0.6m、奥行1.17m
* 掲揚塔南前(現小山)の位置に鉄筋コンクリート製の号令台墟在り

当時ここは航空隊本部庁舎前に位置し、毎日海軍軍艦旗が掲載されていました。堅個なコンクリート製で基部・支持金具が残っておりポールは撤去されています。国家の象徴として旗は敬虔なものであり、軍旗に対する敬礼についは陸海軍とも特に厳しく指導しました。旗の掲揚及び降下中は隊員は旗に向かい敬礼するか、旗が見えない時はラッパの音に向かい不動の姿勢を取っていました。通常、午前8時の「課業始め」のラッパで掲げられ、午後5時「課業終了」のラッパで格納されました。

天皇陛下行幸の際には天皇旗を掲げました。

皇太子殿下御手植えの松

南側の松は、霞ヶ浦海軍飛行場開場間もない1922年(大正11年)6月18日、昭和天皇が皇太子時代に行啓記念に植樹された五葉松です。(行啓:皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃の外出のこと(行幸:天皇の外出のこと))松の根元の石碑には、「皇太子殿下御手植」とあり、裏面には「大正十一年六月十八日 霞ヶ浦臨時海軍航空術講習部」と彫られています。

当時、皇太子であった昭和天皇は大正天皇に代わって政務を執り行う「 摂政 せっしょう」でした。摂政宮殿下として霞ヶ浦海軍飛行場を行啓された時は、「霞ヶ浦臨時海軍航空術講習部」という呼び名でしたが、1922年(大正11年)11月1日に正式名「霞ケ浦海軍航空隊」となりました。

当時の天皇は、陸・海軍にとっての最高司令官であり「大元帥」、全国民にとっては「」と呼ばれた特別な存在でした。(明治天皇が1882年(明治15年)陸海軍に与えた『軍人』には「朕は汝等軍人の大元帥なるそ」と表記 [昭和研究グループ著『戦前の日本を知っていますか』,2007年,P55])
尚、もう一本の赤松の木は戦後こちらに移植されたが、どのような由来があるのか分かっていません。(「臨時海軍航空術講習部と皇族方の来訪」[『爺さんの立ち話 第五集』P32,阿見町教育委員会生涯学習課])「」として昭和天皇は、その後、1924年(大正13年)11月28日、天皇になった後の1929年(昭和4年)11月19日、そして1942年(昭和17年)7月13日に「霞ケ浦海軍航空隊」を合計4回、行幸されています。

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昭和天皇(皇太子時)行啓、大正11年6月18日, 引用:予科練平和記念館所蔵『霞空十年史』

皇太子殿下御手植の碑には裏側に「大正十一年六月一八日 霞ヶ浦臨時海軍航空術講習部」と彫られている。

落下傘倉庫

プール跡

霞ケ浦海軍航空隊のプールは、同航空隊本部の敷地内の南隅にありました。現在の茨城大学農学部の「こぶし会館」南西側で、茨大通り(桜並木)に面する位置です。プールの長さは50m で、戦後1970年(昭和45年)頃までは存在していたようです。当時小学生だったという阿見町出身者の話によると「子供たちが同プールで水泳して遊んでいた。老朽化のためプールと飛び込み台が撤去されたのは、恐らく昭和50年代ではないか」とのことです。

現在は埋め立てられ、プールのコンクリート部分と階段・コース番号が当時の面影を残しているのみです。

海軍航空隊員は、水泳とボート(カッター)漕ぎは必須であり、水泳は昔懐かしの「ふんどし」姿です。

門柱・塀の跡


門柱跡(茨城大学農学部体育館前)
* 体育館は2010年(平成22)4月に完成

阿見坂下に向かって道路の左側は、旧霞ヶ浦海軍航空隊の兵舎・第一士官宿舎・外人宿舎・付属宿舎が立ち並んでいた場所です。1995年(平成7年)に老朽化や大学関係者(学生・教職員)の反戦ムードに伴う史跡保存反対運動が醸成され、残念ながら取壊しとなりました。現在は、当時の面影として門柱・塀の一部が残っています。

本日は立ち寄らない近隣戦跡

海軍航空殉職者慰霊塔

慰霊塔は我が国の海軍が初めて航空術の訓練を始めた、1916年(大正5年)以降1945年(昭和20年)の終戦までに全国の海軍航空隊員の訓練中の事故等で殉職された、5,573柱の御霊が祀られています。

1925年(大正14年)山本五十六大佐(副長)が発案し霞ケ浦海軍航空隊員の労力をもって、1926年(大正15年)2月1日霞ケ浦神社が建立されました。以後毎年、春・秋に祭礼が執り行われました。

1945年(昭和20年)日本の敗戦により神社の撤去も止む無き状態となった時、霊名禄16巻は民家に分散秘匿され、日本が独立したサンフランシスコ講和条約発効日(1952年(昭和27年)4月28日)まで、無事守り抜くことが出来ました。

以後、陸上自衛隊関東補給処に蒐集保管されてきましたが、宗教に関するものを長く保管することは難しく、また神社再建も将来の維持管理に問題が生じるとして断念し、慰霊塔の建立を決定しました。1955年(昭和30年)12月17日に有志の方々のご寄付により当地に慰霊塔が出来ました。

大君の美たてとただに
おもふみは名をもいのちも
惜しまざらなむ
昭和十七年十月廿日 山本五十六書

* 霊名禄16巻は慰霊塔基底に収納・安置
 写しが東京都渋谷区にある東郷神社「海の宮」に合祀
* 土浦の花火大会は1925年(大正14年)秋、山本40歳の時、霞空殉職者の慰霊と土浦町内の不景気を「吹っ飛ばす」趣旨で、「神龍寺」住職に全国花火大会を提案したもの
* 山本五十六の歌碑は、山本が懇意にしていた土浦の「神龍寺」境内に秘匿(土の中)され、無事守り抜くことが出来た。(元々、霞ケ浦神社に建立)
* 現在、慰霊祭は遺族会関係者の高齢化により執行されていない

日本海軍の発展の礎となられたこの御霊を慰霊するため、大正14年霞ヶ浦航空隊に霞ヶ浦神社が建立され、春秋の祭が行われていましたが、終戦当時やむなく神社の撤去となり、社殿は阿彌神社に移設されました。

昭和30年、慰霊顕彰事業が進められ永久的な慰霊塔を建立し、その基底に霊名録を収納安置するのが最良であることが決められ、有志の寄付金をもって慰霊塔を建立し、ここに御霊は永久に鎮まることとなりました。

貯水池跡

中郷保育所脇の位置にございました。現在は道路によって整備されてしまいましたが、茨城大学阿見キャンパス体育館脇の敷地内に僅かな跡が確認できます。

関連情報

本居宣長が「日本人とは何か」と質問され、答えた句

敷島の 大和心を 人問はば  朝日に匂ふ 山櫻花
              本居宣長(1730~1801)江戸時代の国学者、言語学者、医者 

* 訳:「日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です」(本居宣長記念館訳)

当時の町名

(準備中)

神風特別攻撃隊

大西瀧治郎中将が創設。敷島隊5人と大和隊2人の計7人が、フィリピンマバラカット基地から出撃し最初の神風特別攻撃隊の戦果として大本営に報告された。(マバラカット基地は、フィリピンの首都マニラから北へ約90km 、ピナツボ山近く(現米空軍クラーク基地の一部))1944年(昭和19年)10月25日、日本ニュース第232号で「神風特別攻撃隊敷島隊の五人」として、画像が一部カットされた映像で放映された。

大和隊二人は、6番機山下憲行一飛曹(予科練10期)、7番機塩田寛一飛曹(同10期)でしたが、敵艦を発見できず帰還

* 特攻隊は生還を前提にせず、出撃時点で戦死扱い
* 海軍兵学校出身者は非常に少なく、海軍飛行予備学生の出身者が戦地の第一線で特攻機の指揮官を務めました。
* フィリピン戦特攻機:海軍333機、陸軍210機、搭乗員損失~海軍420名、陸軍251名

① 敷島隊 ② 大和隊 ③ 朝日隊 ④ 山桜隊
⚠実際は菊水隊、朝日隊、山桜隊の4機が最初(敷島隊の3時間前)で、大本営への報告遅延

敷島隊の隊員

一番機 ◎ 関 行男 大尉  (海軍兵学校) 愛媛県西条市  23歳(5回目の出撃戦死)
二番機 ◎ 中野磐雄 一飛曹 (予科練10期) 福島県南相馬市 19歳
三番機 ◎ 谷    一飛曹 (予科練10期) 京都府舞鶴市  20歳
四番機 △ 永峰 肇 飛行兵長        宮崎県宮崎市  19歳
五番機 △ 大黒繁男 上等飛行兵       愛媛県新居浜市 20歳(10/25 301空より編入

◎:志願者  △:指名者( 命令者:玉井浅一中佐 [最終職歴大佐/戦後僧侶] )

地元の著名な軍人紹介

山本五十六

山本五十六肖像写真|連合艦隊司令長官時代

(準備中)

大日本帝国海軍大将 高須四郎

高須四郎肖像写真

海兵35期、知英派、日米開戦反対
旧稲敷郡桜川村(現稲敷市)出身
土浦中卒、海軍大学校 甲種17期

1941年(昭和16年)8月11日
 中将 (第一艦隊司令長官) 任命

1944年(昭和19年)4月
 連合艦隊司令長官(1ヶ月間)

1944年(昭和19年)9月 2日 病没(59歳)

最後に

情報量が多くなりましたが、もし興味をお持ちであれば、また確認の際にはこちらのページを活用いただければと思います。

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