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予科練と雄翔館・雄翔園について

阿見観光ガイドの 筧田 聡 かけひだ さとしです。

このページのはじめに、予科練平和記念館の設立から携わってこられた解説員さんのお話をお伝えします。

「『戦争を忘れない』は、知っているからできることです。知らなければ、忘れることもできません」

 

それでは、本日の内容に沿って順にご覧いただければと思います👇

 

予科練と雄翔館の違い

阿見町には、予科練にちなむ記念館が「予科練平和記念館」と「雄翔館」の二つあります。

「予科練平和記念館」は予科練生の日常である訓練や生活の様子を展示
「雄翔館」は神風特別攻撃隊として散っていった英霊の想いに触れる施設で、遺書や遺品を展示

予科練平和記念館

・予科練の歴史や、練習生の日常生活・訓練の様子、そして阿見町の戦争に関わる歴史を保存・展示しています。
・「次世代に歴史を伝え、命の尊さや平和の大切さを考えてもらうこと」を目的に、2010年(平成22年)に阿見町が開館しました。

雄翔館

・遺書や遺品など、個人の想いに触れる展示物が中心です。
・「予科練出身の戦没者、特に神風特別攻撃隊員として亡くなった英霊の慰霊と顕彰」を主な目的とする公益財団法人海原会が、1968年(昭和43年)に建設・運営しています。

没者、特に神風特別攻撃隊員として亡くなった英霊の慰霊と顕彰」 を主な目的とする「公益財団法人海原会」が、1968年(昭和43年)に建設・運営

 

予科練とは

「予科練」とは、海軍飛行予科練習生という制度およびその略称を指す言葉です。1930年(昭和5年)に横須賀の追浜に設置され、終戦まで存在した、旧日本海軍の少年航空兵の養成制度です。我が国の海軍は第一次世界大戦以降、航空戦力の重要性を認識し、若く熟練した搭乗員を養成するため、若年から基礎訓練を行いました。

第一期予科練習生には、全国の小学校高等科卒業程度の14歳半〜17歳の少年5,807名の応募があり、79名が選抜されました。横須賀海軍飛行予科練習部で教育が始められています。

1921年(大正10年)、阿見には霞ヶ浦飛行場が開かれ、翌1922年には霞ヶ浦海軍航空隊が開隊されました。1939年(昭和14年)、戦況の悪化に伴い早期の搭乗員育成が求められると、飛行予科練習部が阿見町へ移転し、土浦海軍航空隊として予科練教育の中心となります。以来、終戦まで全国の予科練教育・訓練の中心的な役割を担うことになりました。

予科練平和記念館は、こうした予科練の歴史や阿見町の戦史を保存・展示するとともに、次世代へ伝承し、命の尊さや平和の大切さを考えていただくため、2010年(平成22年)2月2日に開館しました。予科練の制服である「七つボタン」にちなみ、七つのテーマ展示を中心に紹介しています。

予科練出身者は、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦、中国大陸などで航空兵力の中心として戦い、戦局が悪化してからは特別攻撃隊の隊員へと編成されていきました。

当初、予科練生は2年半の基礎教育を受けたあと、練習機(通称「赤とんぼ」)による1年以内の飛行訓練を受けました。その後、配属先の部隊で実用機に乗り、熟練操縦員へと成長していきます。(1937年に日中全面戦争が始まると、教育期間は甲種1年半・乙種2年半へと改められ、戦局の悪化に伴い段階的に短縮されていきました。)

終戦の頃には、一部の地域・時期において、志願への強い同調圧力があったとの証言が残っています。たとえば「配属将校が来て名簿で次男・三男を一人ひとり呼び出し『お前、志願しろ』と言われた」「志願を断ると特高の監視対象となった」と語る元関係者の証言もあります。(参考:YouTube|知らないセカイ「【衝撃】全ての日本人が知るべき〝愛国心〟の正体。次世代へ繋ぐ『バトン』を受け取りました。」

飛行予科練習生制度が始まってから終戦までの約15年間で、予科練への入隊者は約24万人にのぼりました。そのうち約2万4千人が実戦部隊へ進み、その大半にあたる約1万9千人が戦死したとされています(数字の扱いは資料によって多少異なります)。なお、終戦間際には大量に入隊させたものの乗る飛行機がなく、予科練課程を修了できた人はわずかでした。

⚠ 1939年後半~1940年初頭の経済悪化(当時の社会背景)

1939年夏は日照りと労働力不足とで電力不足,石炭不足に見舞われ産業活動は低下した。凶作が引き金で米不足が起こり,生活必需品の不足が広がった。これに第2次大戦による輸入困難も加わってインフレは増進した。社会不安は激化し,40年1月には阿部内閣は退陣に追い込まれた(引用:日中戦争|世界大百科事典

新語・流行語:「日の丸弁当」、「産めよ殖せよ国のため」(1941年)などがある。
(参考:自分史製作所|【1939年】自分史と関連付けて書きたい1939年の出来事

 

零式艦上戦闘機

予科練平和記念館の実物大模型

・開館5周年を記念し、実物大で製作されました。手掛けたのは「広洋社」(水戸市)です。
・モデルは戦争初期に投入された二一型で、「明灰白色」塗装です。

※零戦二一型の機体色は、海軍の色見本ではJ3系のグレー(一般に「明灰色」とされる色)が指定されていました。一方で、実機は塗料のバインダーが黄変したり退色したりして、灰緑色〜飴色がかった色に見える場合もあり、この経年変化をどう再現するかを巡って「飴色零戦」論争が続いてきました。

飴色とは下記の写真のような温かみのある黄色や茶色が混ざった独自の色合い。(下記の写真は夕日があたっているからこのような色なのだが)

本物の零戦の話

・当時の日本の軍用機の名称には、採用年次の皇紀(神武天皇即位紀元)の下2桁を冠する規定がありました。零戦が制式採用された1940年(昭和15年7月)は皇紀2600年にあたるため、下2桁の「00」から「零式」とされました。

・二一型は、零戦のなかでも最も美しいと評価されることが多い機体です(五二型は深緑色)。
・生産数は1万430機(日本の軍用機で最も多い)。
・開発は三菱重工業で、中島飛行機でもライセンス生産が行われ、総生産数の6割以上が中島製でした。
・航続距離は約3,000km(長大)。
・対爆撃機用の20mm機銃2門を装備(重武装)。
・格闘戦を重視した優れた運動性能を備えていました。
・空力的洗練と軽量化を徹底追求した設計で、1,000馬力級の栄エンジン(中島飛行機が開発・製造した航空機用空冷星型エンジン)の性能を極限まで引き出し、当時世界最高水準と評価する研究者もいます。
・設計当時の栄エンジンを搭載した飛行可能機は極めて少なく、飛行可能な例としては、米ロサンゼルスのプレーンズ・オブ・フェイム航空博物館(Planes of Fame Air Museum)が所有する零戦五二型などが挙げられます。
・主翼主桁には、住友金属の新合金「超々ジュラルミン」が使用されました。

 

特別攻撃隊

・特攻隊員の戦死者は、海軍4,146人、陸軍2,225人、計6,371人とされています。
・出撃前に終戦を迎えた元特攻隊員の方は、「愛国心とは死ぬこと」と説明されました。死ぬことは「怖い」というより「しょうがないこと、そして名誉」であり、「君に忠、親に孝」という価値観だったといいます(日中戦争の頃から、戦死は名誉とされる風潮がありました)。
・実際に特攻を命じられたときは、命令につぐ命令で、死や生を考えている間はなかったと証言する方もいます。
・終戦直前の特攻志願の例として、分隊長室へ呼び出され、「今から特別休暇2泊3日をやる。わかっているな」と言われた、という話も残っています。

神風特別攻撃隊

神風特別攻撃隊は、大西瀧治郎の命令で1944年(昭和19年)10月19日に編成されました。

大西瀧治郎が予科練生に語っていたとされる話(以下は口伝であることにご注意ください)

・「若い人が命をかけて守ったと聞けば、陛下は戦争をやめられる。そして日本民族は再興できる」と考えていた、と一部で語られています。
・大西瀧治郎は終戦翌日の8月16日に割腹自殺をはかり、介錯を行わせず、長時間苦しんだ末に亡くなりました。

回天

・屋外展示の回天(実物大模型):2005年(平成17年)にTBS系列の2時間番組として放映された「僕たちの戦争」の撮影に使用された実物大の回天模型が阿見町に寄贈引用:受け継ぐ思い | 予科練平和記念館ブログ

・「鉄の棺桶」と呼ばれた特攻兵器です。
・潜航中は前が見えないため、潜望鏡を使って海上で一旦敵艦の位置を確認したあと、推測で潜航し、敵艦へ体当たりを仕掛けました。
・1.5トンの爆薬を積みます(九三式魚雷の約3倍)。
・人間魚雷「回天」の発案者は黒木博司大尉です。
・「回天」の名は、海軍特攻部長・大森仙太郎中将が幕末の軍艦「回天丸」から命名したもので、天を回(めぐ)らし戦局を挽回するという願いが込められています。

・志願状況について、ある元隊員の証言では、甲種飛行予科練習生第13期では「約2,000名の卒業生のうち『熱望』が大半を占め、その中から約100名が回天要員に選抜された」と語られています(個人証言であり、公式統計ではありません)。例:甲種飛行予科練習生 13期生2,000名(要確認)の卒業生の内熱望94%、望5%、保留1%で熱望・望約1,900名以上の中から100名が選抜された

 

山本五十六

1884年(明治17年)
 旧長岡藩士高野貞吉の六男として現長岡市で生まれる
 父56歳の時の子のため五十六と命名

1916年(大正5年)
 長岡藩家老 山本家の養子となり山本家を再興、以後山本姓を名乗る
 ※ 山本家は明治維新時に新政府軍と旧幕軍の戦いの責任を取らされお家断絶となっていた)

1918年(大正7年)
 旧会津藩士三橋康守の三女禮子と結婚
 長岡と会津は共に旧上杉藩領の時代あり(上杉鷹山(米沢藩9代藩主)の信奉者)

1924年(大正13年)9月~1925年(大正14年)12月迄
 霞空副長兼教頭として勤務、霞ヶ浦神社建立に尽力
 40歳であった(『続・阿見と予科練』p6)

1925年(大正14年)12月
 米国日本大使館付駐在武官として転出
 ※ 正式呼称は「米国在勤帝国大使館附海軍武官」

1943年(昭和18年)4月18日
 パプアニューギニアのブーゲンビル島上空で戦死。享年59歳。
 一式陸攻2機と零戦6機(旧型)の護衛で前線視察の途中
 P38ライトニング(新型)16機(他説では18機)の待伏せ攻撃で撃墜され戦死
 米軍は日本海軍暗号JN-25を解読し、山本の日程を把握していた
 現場航空隊は20機程度を出したいと申し入れたが、連合艦隊側の判断で認められなかったと伝えられている
 最終階級は元帥海軍大将
 山本の死は1か月以上秘匿され、5月21日の大本営発表ならびに内閣告示で公となった
 (副司令も知らなかった)

ちなみに山本は海軍の「大艦巨砲主義」に対し、航空機が担う役割の重要性を訴えていた。

参考:山本五十六 – Wikipedia

常在戦場

山本五十六の出身地・越後長岡藩(藩主牧野氏)は、元々東三河から来ており、戦国時代に牧野は東三河に牛久保城を建てた時、家訓として十八条の『心得の条』を定めた。「常在戦場」はその第一番目の家訓である。

名言

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。

 

雄翔館

予科練出身戦没者の慰霊・顕彰を目的に組織された海原会が、1968年(昭和43年)、真の平和を願って建設しました。予科練の歴史を後世に正しく伝えるため、その象徴の地である土浦海軍航空隊の跡地に作られています。出撃前に決意を書いた遺書や家族への手紙、遺品など約1,700点を収蔵・展示し、少年たちの戦いを現代に伝えています。なお、館内は撮影禁止です。

 

雄翔園

雄翔園は、若鷲として祖国防衛のため全国からこの地に集い、日夜勉学に励み心身を鍛えた予科練生の功績と英霊を永く顕彰するため、1966年(昭和41年)に予科練関係者によって造られました。戦没者慰霊碑とともに、5月27日(海軍記念日)に高松宮同妃両殿下をお迎えして除幕式が行われています。

園内の庭は、予科練生たちが故郷を偲び、両親や兄弟姉妹を思う尊い気持ちから、日本列島をかたどり、日本全国各地の石を集めて作られています(写真準備中)。

先輩と後輩が肩を組み、日本の平和と繁栄を見守っている姿の像、その手前の敷石は、出撃前の「水盃(みずさかずき)」を表しています。

高松宮妃殿下御歌歌碑

歌碑には、喜久子妃殿下(高松宮妃殿下)の御歌が刻まれています。歌碑建立の3か月前、霞ヶ浦湖畔に立ち、海と空に散華した予科練生たちを声なく偲ぶ思いを詠まれた一首です。

海はらに  はたおほそらに  散華せし
きみら声なく  いく春やへし

喜久子(高松宮妃殿下)

歌碑建立3ヶ月前に霞ヶ浦湖畔に立って予科練習生を偲んで詠んだ御歌

中庭の芝は桜の花びらをかたどったもので、そこに海軍制服の象徴である「七つボタン」を表す石が七つ配置されています。また、芝生まわりの敷石は錨を、外回りには日本列島に見立てた池が作られています。

 

その他

日中戦争〜大東亜戦争

1931年 満州事変

・満州を占領し満州国建国 → 権益確保・軍部独走・満蒙権益など複合要因

1937年〜1945年 日中全面戦争

・北京郊外の武力衝突をきっかけに、華北から華中へと戦争拡大、首都南京を占領し更に華南へ
・通常、日中戦争の期間は、1937年〜1945年(終戦)まで(広義には満州事変以降を含む)

1941年 大東亜戦争(太平洋戦争)

・日中戦争の流れでベトナムまで進出し、大東亜戦争に発展
・1941年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾攻撃と同時にタイやマレー半島にも侵攻を開始し、その2日後の12月10日にはマレー沖海戦で英東洋艦隊の主力艦を撃沈しました。
・ミッドウェー海戦の大敗(日本は主力空母4隻を喪失し戦局の転換点となった) → 戦後まで発表されず

特別高等警察の対象 → 国事犯・思想犯(一般人も含まれた)
憲兵の対象 → 陸軍(地域によっては行政警察・司法警察の役割も担った)
海軍警査・海軍特別警察隊(海軍の人からは巡邏と呼ばれていた?)の対象 → 海軍

 

最後に……

私たちガイドも、まだまだ学び成長しながら情報発信を行っております。お気づきの点やご質問がございましたら、お手数をおかけしますがご連絡いただければ幸いです。これからもどうぞよろしくお願いいたします!

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