阿見町の歴史を知る一日
阿見の歴史探訪と銘打って、2016年12月3日の朝8時半から阿見町内の歴史を追った。参加者は40名弱。講師はあみ観光ボランティアガイドの会会長の金澤さん。
宮平貝塚
縄文時代
八幡古墳群
蔵福寺
木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代)や伊達政宗の書簡(写し・江戸時代)がある。
古代東海道
飛鳥・奈良時代
牛久助郷一揆
江戸時代
中央格納庫
大正時代につくられた戦闘機の格納庫は、改修を重ねて現井関農機の整備場となっている。
掩体壕(えんたいごう)
戦闘機を敵の攻撃から守るための施設。戦闘機を格納できるコンクリート製の防空壕。
霞ヶ浦航空隊本部跡
大正時代
伊達政宗、阿見吉原に来たる
同日午後は、阿見町の中央公民館で、伊達政宗の足跡をたどる会だった。細かな道のりは分かっていない。しかし、竜ヶ崎陣屋から阿見町追原にある蔵福寺まで1日かけて来たことが文書として残っている。
↓ 蔵福寺 ↓
↑ 龍ケ崎小学校&竜ヶ崎二高 ↑
政宗の信太領巡行は、政宗が高齢であった事、また少なくても百人前後の護衛やお付きの者が同行したであろう事、籠を用いた巡行であれば3列縦隊できる道幅が必要であろう事、そして戦国時代は、清明川と桂川に挟まれた領域は、上杉の家臣大越氏が上条を拠点に領していた事等を考えると
小野川、乙戸川、桂川、清明川を渡るアップダウが少なく、小休止、昼食など多くの同行者を接待できるそれなりの大きな村を経由したのでは無いかと推測していたのですが?
龍ケ崎二高→女化→岡見→小池→実穀→若栗→上条→塙→追原のほうが平坦であり明治14年の地図から大きな村を経由して巡行できると思うのですが、問題は、岡見が関宿藩の飛地領であることです。しかし徳川将軍より了解済みとあれば通行可能かと推測します?
田山さま
はじめまして、
阿見観光ガイドで幹事をしております、筧田(かけひだ)と申します。
非常に参考になる考察、ありがとうございます!
この記事で、示した画像の経路は、
これは2016年、茨城県龍ケ崎工事事務所主催の「伊達政宗阿見吉原に来たる!?」というイベントでの説明を参考に描画したものです。
こちらのPDF資料の2ページ目も参考にしていただければと思います。
https://www.pref.ibaraki.jp/doboku/toshisei/jigyo/amiyoshiwara/documents/141224_24.pdf
現在は、更に議論が進んでいると思います。
改めて、当会 (阿見観光ガイド) の中でも情報確認・検証を行いたいと思います!
知識を共有していただき、感謝申し上げます。
これからもどうぞ、よろしくお願いいたします!